電話考

電話がかかってきても出ない、というのが普通になったのは、留守電が普及してからのような気がする。昔むかしの電話ってものは、かかってくる側よりもかけてくる側が優位な通信形態だったのだ。これが大転換といってはちょっと大袈裟だけど、かけている側よりもかかってくる側が優位になった、というのは、かかってくる側が、それに出るか、出ないかを、選択できるようになったからだ。逆に、かける側は、電話のむこうに本人がいることがうすうすわかっていても、出てくれないかもしれないことを前提に電話をかけるのである。
電話という通信形態は、ほぼ確実につながるものから、なかなか相手につながらないものに、だんだんと変わっていった。
かつて電話をかける先というのは、その相手の家族、家庭であって、それは相手の家へのちょっとした訪問だったのだ。これが携帯電話の普及で、1人N台の時代になって、電話は家族や家庭をすっとばして直接相手と接触するものになった。
だからこそ、電話を受ける側の選択的コミュニケーションというのが求められるようになった。
この5年くらい、めっきり長電話をすることがなくなってしまった。メールを使うようになって長電話しなくなった、というのもあるのだが、電話という行為そのものが、なんだか面倒くさい感じになってしまったのだ。この変化は何なんだろう。
ひとつには、相手の時間を束縛することへの躊躇がある。これは同時に、なるだけ他人に自分の時間を束縛されたくない、という自分本位の裏返しでもあるのだ。
電話でのお喋りというのは、声色とか語気とか、言葉の字面以上の過剰さがあり、相手の顔が見えないだけに、余計にその声の表情から相手の気分や気持ちを察してしまう傾向がある。これがなんだか心理的負担なんだと思う。