カーボンコピーの権力

中学校のとき、同級のある女子の目が腫れていた。実はその原因が私のせいだということになり、朝のホームルームで立たされて、先生に叱られ、謝罪させられたことがあった。剣道部だった私は、前日体育館で竹刀の鍔を転がして遊んでいたのだが、それがバスケット部だったその女子にあたったということらしい。
たしかに剣道部の何人かでふざけて鍔を転がして遊んだわけだが、それがその女子にあたったようなことはなかったはずだ。でも、鍔を転がしたのは確かで、そのことには負い目の気持ちがあった。その女子に鍔があたった覚えはないのだが、先生に叱られて謝れと言われれば、当時の私は、いえ、私はやってません、といえるだけの強さがなかった。
その後になって、実は私の鍔があたったのではなかったことがわかった、鍔を転がすといった子供っぽい悪戯について謝罪したのだと自分を納得させた。その先生はみんなの前で叱ったことを私に謝ってくれた。
そんな昔のことを思い出したのは、メールのカーボンコピーの会社での使い方で、ああ、これはホームルームで立たされて、みんなの前で叱られて、謝罪させられた、そのときの状況と似ているなと思ったからだ。
組織のみんなで情報共有しよう、という建前で、あらゆるタスクについてその業務報告を逐一関係者一同にカーボンコピーで転送する。
なにか失敗やトラブルがあったときに、その原因について、みんなの前で指摘され、みんなの前で報告させられ、謝罪させられるわけである。
これは毎日のちょっとした業務報告ですら、関係者一同が集まる会議の席上でなされているようなものだ。ものすごく緊張とストレスを強いる状況なのである。
日本的な村社会の陰湿さというか、個人の領域がかぎりなく他者たちに介入される、衆人環視のシステムとして、電子メールが機能し、そこにおける権力関係が増幅されるわけである。