楽器の時代と声の時代

声が楽器を模倣するアプローチと楽器が声を模倣するアプローチ。
前者は、楽器をイデアルなものと捉え、声をイデアルなものに近づけようとする。声はイデアルなものから遠い、劣ったものと暗黙に考えられているのかもしれない。
一方後者は、声の響きの多様性や表情といったものがあり、そうした豊かさに楽器が憧れ、模倣するということかもしれない。
カサンドラ・ウィルソンだったか、あるジャズのドキュメンタリ番組で、ボーカルが楽器を模倣するのがこれまでは主流だったけど、楽器がボーカルを模倣する時代に大きく転換してきているように思う、てなことを言っていた記憶がある。
また、最も声に近い楽器はサックスで、サックスをギターが模倣する、といった解釈を読んだ記憶がある。サックスは男性の、バイオリンは女性の、それぞれの官能の表現てのはフロイトの解釈だったかな。そうすると、ある一時期のロックギターは、男性性と女性性の官能の融合ということなのかもしれないが。
で、楽器というのは、サックスにしてもギターにしても、アクロバティックな超絶技巧フレーズの探究に走り、それが受ける時代がある。そうしたアクロバットをボーカルが模倣するというアプローチが受けたわけだ。
楽器が声の豊かさを模倣するというとき、実は声の豊かさというのは転倒したイデアリズムではないかと思ったりもする。それはありのままの声の響きが豊かなのではなくて、すでに声の豊かさは楽器によってしか作り出せないということかもしれない。
このあたりは、身体への回帰とかいった単純な話ではおそらくないだろう。むしろ身体からの遠ざかりであると同時に、逆説的にそれが肉感的で官能的でもあるような音の響きの追求ということなのだろうか。
高橋悠治からの引用:

近代楽器はピッチを明確に伝達するために改良されているので、
音色は副次的な指標にすぎない。その意味では抽象化した楽器だが、
コンピュータから見ればまだ抽象度がたりない機材であり、
中途半端な存在と言ってもいい。
これらの楽器はいずれ再改良、あるいは逆開発によって、
いったん元の状態にもどしてから、
改良の過程で失った音色やノイズを含んだ新しい形を考えなければ
飽きられてしまうだろう。
バロック音楽だけではなく、
モーツァルトまでが古楽器で演奏されるようになった。
音色をとりもどすことは、現代音楽の作曲家や演奏家たちが試みたような、
ピッチにもとずいた近代的な形態をそのままにして、
その上に特殊奏法を付け加えるようなやりかたではできない。