情報技術考

技術が社会を規定する、と考えるのが技術決定論。一方、社会が技術を構成する、と考えるのが社会構成論。さらに、技術と社会は相互規定の関係にある、と考える立場があって、最近ではこの立場が主流であるらしい。
技術は社会に受容される過程で、社会の側から解釈されて受容される。このとき、技術は必ずしもその本来の思想とともに受容されるとはかぎらない。むしろ、社会の利害関係に従って解釈され受容される。
ハイパーテキストという技術は、テキストのリニアな構造に対して、ノンリニアなネットワーク構造(リゾーム)を実現するとされ、これはまさしくポストモダニズムが表現された技術であると(一部)人文系の人々から解釈され受容された。
でもねえ、ハイパーテキストの技術は、かならずしもハイパーでノンリニアなものとして使われるとはかぎらないわけで、むしろ現実にはツリー構成が支配的であるのだし、もちろんリンクやコメント(ブログの場合)といったノンリニア的アルファがあるわけだが、しかしそれが従来の脚注などと比べてどれほど決定的な違いがあるのか。ウィキにしても、索引や辞典的構造とさほど変わらないのではないか。
ウェブにおいてなによりノンリニアに介入してくる最大のエージェンシーって(文字通り)広告ではないか。ポストモダニズムってミクロな広告による生政治的介入ってことだったのか、といまさらながら思う。
「情報の堕落があるのではない。情報とはそれ自体が堕落なのだ。」
http://www.t3.rim.or.jp/~harunaga/image-temps.html
ソースはどこ? デスティネーションは? どこからどこへのナビゲーション。
ソースは、情報とは別にあるのではなく、情報そのものが知らせる事にすぎない。