情報通信産業考

ポストモダニズムとは何ぞや。ある翻訳家と話していて、モダニズムの産業的背景が自動車、ポストモダニズムのそれがコンピュータ、と解釈されてきたわけですよね、云々、という図式がでてきて、うーん、ちょっと待てよ、と思ったので、思考整理。

自動車とコンピュータの対比というのは、よく使われる便法。ヘンリー・フォードビル・ゲイツを比べる発想というのも、この系譜にある。ただし、コンピュータ以後も自動車はあるわけで、自動車からコンピュータに移行したわけではない。共通点は、周辺に広範に関連産業が形成されたこと(基軸性があること)、その普及を通して人々の生活が大きく変わったこと。
自動車の普及と並行してハイウェイの整備というのがあって、かつてスーパーハイウェイとして構想された現在のインターネットがこれとパラレル。一方は交通の、他方は情報通信の、インフラストラクチャ。

両者の違いを考えるとき、思い出すのはナムジュンパイクの言葉。「物を移動させる、人を移動させる、そのために交通があるわけだけど、それはたいへんエネルギーを消費する。だから人が移動するかわりに情報を移動させれば、エネルギーの消費をすこし節約できるから、よりハッピーなんじゃないか」てなことを発言していた。

しかし、だとすると、ラジオ、テレビ、電話、ってのはどう考えればいいの、と思うわけである。これらをひっくるめて情報メディア技術全体において、モダンからポストモダンへの移行があった、と考える方がしっくりする。
インターネットを使い始めた頃、興奮した理由のひとつが、海外との通信が簡単に安くできるようになったこと。国境を簡単に越える感覚は、それまでのメディア技術ではあまり味わえなかった(ただし短波放送は例外)。つまり、ラジオ、テレビ、電話、というのは、ドメスティックなメディアだったのである。

80年代にNTTの民営化とニューメディアブームがあって、情報通信革命がさかんに言われたのだけど、ISDNもVIDEOTEX/CAPTAINも成功しなかった。技術がいくら新しくても、魅力的なコンテンツがなかったのが失敗の理由(例外はパソコン通信)。つまり当時のメディア技術関係者の発想には、コンテンツはコンテンツ提供企業が提供するもので、ユーザはあくまで情報の利用者、消費者にすぎない、という固定観念があったように思う。
インターネットの商用利用がはじまる前の94年頃、かつてのニューメディアのときの失敗をインターネットで繰り返してはいけない、てなことをたとえば高橋徹氏が話していた。
ニューメディアの失敗から約15年が経過する間に、パーソナルコンピュータの成長と低価格化が達成された。でも、より高速に、より大量に、より多くの人々に、これってモダニズムの典型であるわけだが、技術が社会を変えるという技術決定論の考えにまんまとはまってしまったのは、パーソナルコンピュータの進歩にそれだけ期待が大きかったことの裏返しか。