ドキュメンタリー頭脳警察

PANTAが語っていたように、昔の曲が長い時間を経て、新しい魅力と輝きを生むことがある。
第一部の「屋根の上の猫」は、そうした一曲だった。
「猫」は最初に好きになったPANTAの曲。あえぎながら、もがきながら、疾走している、そんな風に捉えていた。
この映画で聴いた「猫」は、PANTAの表情と身体の動き、そのもろもろが、まるで幽霊のように、そこにありつつ、そこではないどこか別の場所につながっている、そのような不可能なインターチェンジを垣間見せるような表現に思えた。
おれはきみになりたい、きみはおれになりたい、でもそれは不可能だ、だからもがく、というのがそれまでの猫だとしたら、いや、いまおれが立ってる場所は、おれがきみになり、きみがおれになる、それが可能な場所なんだ、それがここなんだよ、と示すような。

このことは、PANTAの母の死、そして重信房子との関係と深くつながっているのだろう。
氷川丸を通して母の生きた歴史をわかろうとすること、また、同じように、もしかしたら自分が重信房子の場所にいたかもしれない、おれが彼女になっていたかもしれない、という想いを引き受けること。
PANTAはそれを、単に頭の中の想像だけではなく、具体的な行動を通して、その関係をつむいでいく。そうしてつむがれた想いが架け橋になって「七月のムスターファ」がリアルな歌として育っていったのだろう。
二百人のアメリカの銃口を前に一時間を戦い続けた十四歳の少年。
そんな少年がいたんだ、そのことを記憶してくれ、と歌う。
もしきみがそんな状況に置かれたら、どうするという問いかけ。
日本人だったら、白旗を振るか、泣き崩れるんだろうな、とPANTAは言う。
そこからわき上がる、怒りと苛立ちと哀しみの激情。
それが頭脳警察の歌の根底だ。